夏の読書おすすめ5選:「誠実に嘘をつくこと」を考える
Miwa Seki
Aug 12, 2026

私は翻訳家として60冊を超えるビジネス書・ノンフィクション書を翻訳してきました。よく、「おすすめのビジネス本は?」と聞かれるのですが、ビジネス本はほとんど読みません。エンタメ小説ばかりを読んでいます。そんなわけで、この半年で読んだ本の中から5冊を選ぶと、ほとんどは皆さんもご存知のエンタメ小説になってしまいました。
エンタメ小説を手に取るのは、異世界に素早く没入したい、別の人生を歩んだ気になりたい、といった純粋な理由からです。しかし、もうひとつよこしまな理由も抱えています。それは、いつか私も商業的に成功する小説(金儲けにつながるもの)を書きたい、そのために売れてる小説を自分の中にインプットしておきたいという下心です。売れている小説を読めば売れる小説を書けると考えるなんて、浅はかですよね。すみません。とはいえインプットなくしてアウトプットなし。とりあえずインプットしてその日に備えようっと。
VCの仕事は起業家のお話を聞き、事業計画を見て、未来を妄想することです。私やたいていの投資家の想像の範囲は矮小です。一方、成功を収める起業家の妄想は私たちの常識を軽々と超えていきます。凡庸な人間のちっぽけな想像の範囲をはるかに超える不可能な未来を、あたかも「ありそう、できそう」と思わせてくれる説得力のあるナラティブを語れる起業家は、資金調達に成功し、チームを築き、顧客に受け入れられ、事業を拡大できます。
売れる小説も同じです。小説家の川上未映子さんは、これを「誠実に嘘をつく力」と呼んでいます。作り物でありながら、「ああ、そうそう、そういうことあるよね。わかる」と読者に思わせるには、作者の誠実さが欠かせないのです。
今回の最初の4冊は「誠実に嘘をつく」ことに成功したフィクション小説。そして最後の1冊は上質なノンフィクション。「細かな最適化」を通して不可能を可能にする医療チームの物語です。
1. 朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』(日経BP/2025年)
「推し」に熱狂する構造を、宗教になぞらえて解体する
2026年の本屋大賞受賞作。あるアイドルグループをめぐって、ファンダム経済を仕掛ける側、のめり込む側、かつてのめり込んでいた側という、世代も立場も異なる3つの視点から物語が進みます。
タイトルの「メガチャーチ」は本来、数万人規模の信者を抱える巨大教会のこと。この小説では、特定の対象を熱狂的に支持する集団と、その熱狂を加速させる社会の仕組みそのものを指しています。
冒頭に書いた「誠実に嘘をつく」で言えば、この小説に出てくるのは、誠実さの側を捨てた語り手たちです。物語の効き目だけを取り出して運用したとき何が起きるのか。それが恐ろしく精密に書かれています。人の心を動かすのに最も有効なのは物語であり、その物語は誰かを救いもすれば、誰かを搾取もする。同じひとつのものの両面として描かれています。
2. 永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』(新潮社/2023年)
ひとつの事件を、5人が語り直す
第169回直木賞・第36回山本周五郎賞受賞作。江戸・木挽町の芝居小屋の前で、雪の夜に若い侍が仇討ちを果たした。数年後、その顛末を聞き取りに来た若者に対し、芝居小屋で働く人々がひとりずつ語っていくという構成です。
木戸番、女形、衣装係、小道具職人、囃子方。証言が重なるにつれて、あの夜に何が起きたのかが少しずつ形を変えて浮かび上がります。ですがその全員が、カズオ・イシグロ作品でもお馴染みの「信頼できない語り手」なのです。
この小説がすばらしいのは、語り手たちがみな、自分の来し方を一緒に語ってしまうところです。仇討ちの話を聞きに来たはずが、いつのまにか江戸で生きる市井の人々の人生を聞かされている。そして最後、その全部がひとつに畳まれる。
そしてこの作品は、まさに「誠実に嘘をつく」ことを主題として扱った小説でもあります。これ以上は書けませんが、読み終えたとき、嘘の側にこそ誠実さが宿ることがあるのだと深く納得させられます。
映画版も色彩が美しく、演技者たちがまさしく「誠実に嘘をついて」います。
3. 町田そのこ『月とアマリリス』(小学館/2025年)
声にならなかった声を、どう語り直すか
『52ヘルツのクジラたち』で2021年の本屋大賞を受賞した町田そのこさんの、初のサスペンス長編。北九州の山中で高齢女性の白骨遺体が見つかり、ある事件をきっかけに事件記者を辞めていた飯塚みちるが、その背景を追ううちに自身の過去の傷とも向き合っていくという物語です。
地方に染みついた「女の生きにくさ」、当たり前のように振るわれる悪意、そして誰にも聞き取られないまま消えていった声。読みながら、第三者としてではなく自分の中にあるものと向き合わされる感覚があります。
主人公は記者。記者は事実しか書けません。それでも、どの事実を選び、どう並べ、誰の言葉から始めるかによって、読者が受け取るものはまるで変わってしまう。書かなかったことによって嘘になることさえある。
「誠実に嘘をつく」という綱渡りを、最も生々しい形で強いられる記者という仕事。この小説は、その綱渡りに失敗した過去を持つ人物が、もう一度その綱に足をかけるまでを描いています。何のために語るのか、誰のために語るのかという問いが、最後まで緩みません。
4. 太田愛『犯罪者 クリミナル』(角川書店/2012年、角川文庫)
物語を、武器として使う
「相棒」「TRICK2」などの脚本家として知られる太田愛さんの、小説家デビュー作。白昼のショッピングモールで無差別殺傷事件が起き、唯一の生き残りとなった青年が、なぜか命を狙われ続けるというところから始まるクライム・サスペンスです。
上下巻ありますが、心配は要りません。だいたい上巻の半ばで、もう止まらなくなります。
ここでも「誠実に嘘をつくこと」が主題になっています。追い詰められた3人が、巨大な相手に対抗するために選ぶ手段は、メディアと世論です。1冊目の『イン・ザ・メガチャーチ』とはまったく逆の立場から、同じ場所に触れている気がしました。持たざる者が世界を動かそうとするとき、手元に残っている道具は、結局のところ「誠実な嘘」しかない。
なお本作は、『幻夏』『天上の葦』と続く三部作の第一作。続きが気になったら、この順番でどうぞ。お盆休みが一瞬で溶けます。アマプラでドラマ化されているので、そちらもご覧あれ。
5. 高梨ゆき子『「もう一度歩ける」に挑む 救命救急センター「チーム井口」の覚悟』(講談社/2025年)
通説に逆らって究極の不可能に挑む
年間200人以上の脊髄損傷患者を受け入れている、川越の埼玉医大高度救命救急センター。頚髄損傷は「不治のけが」とされ、一度失われた機能は戻らないというのが長く医療の常識でした。そこに、緊急手術と早期のリハビリを組み合わせて挑み続けるチームがある。その現場を、丹念な取材で追ったノンフィクションです。
著者の高梨ゆき子さんは読売新聞の記者で、群馬大学病院の腹腔鏡手術をめぐる一連のスクープにより新聞協会賞を受賞し、『大学病院の奈落』を書いた方。つまり、医療が語る物語の危うさを、誰よりも厳しく見てきた書き手です。その人が今回は、「治るかもしれない」と語る医師たちの側に立って取材しています。
通説では無駄とされてきた怪我直後の手術によって「未来を変えられる」と信じる医師たち。ただしエビデンスはなく、あるのは積み重ねてきた実績です。整形外科医である井口医師は「より早く、もっともっと早く」手術をするために、救急急救急ンターの柱として24時間365日急患に対応しています。コールを受けたら早朝でも夜中でも30分以内に手術室に現れるスーパーマンぶりに、「井口先生は2人いるのではないか」と噂されるほど。
本書には「エビデンスはあるか」と題された章があり、なぜ他の病院ではできないのか、スーパードクター個人ではなくシステムとして成立させるにはどうすればいいのかという問いに、正面から向き合っています。希望を語りながら、同時にその希望を検証しようとする。ともすればお涙頂戴になりがちな医療現場のドラマを、冷静かつ誠実に描き出した高梨さんの筆の力に圧倒されました。
おわりに
小説家も、起業家も、そして医師も、存在しない世界を語ることで人を動かします。「誠実に嘘をつく」力は、不可能に見える未来にコミットし、仲間を巻き込み、諦めずに実現する粘り強さに他なりません。誇大妄想(嘘)とコミットメント(誠実さ)の両方を手放さずにいられる人の語りだけが、読者を最後のページまで、患者を次の一歩まで、そして起業家と投資家を次の10年まで運んでいくのだと感じています。
暑い日が続きます。冷房の効いた部屋で、あるいは帰省先の縁側で、どれか1冊でも手に取っていただけたらうれしいです。
みなさんのおすすめも、ぜひ教えてください。
